[トリビア6]
コカ・コーラの初代びん詰め業者(ボトラー)代表はソーダファウンテン経営者だった。
[解説]
 キャンドラーがソーダファウンテンの売り上げを伸ばすことに注力していた1894年、ミシシッピ州ヴィックスバーグでソーダファウンテンを営んでいたジョセフ・A・ビーデンハーンは、その人気の凄さから、びん詰めコカ・コーラのケース売りを決意。店の裏に自身でびん詰め機械を設置し、ミシシッピ川沿いにある農場や製材所への販売を開始しました。このようにして彼は、コカ・コーラの初代びん詰め業者(ボトラー)となりました。
Coca-Cola Journey Special“Coke”
思わずうなる「コカ・コーラのトリビア20」

1900年当時のコカ・コーラ



[トリビア7]
コカ・コーラのボトリング工場の数が1000軒を超えたのは1919年。
[解説]
 1899年、チャタヌーガ(テネシー州)に初のボトリング工場が開設されました。翌年には2軒目の工場がアトランタで操業を開始。その後、ボトリング工場の地元の資産家が、コカ・コーラのびん詰め販売権取得契約をし、コカ・コーラのボトリング事業を立ち上げるシステムが完成。あれよあれよという間に、工場は20年間で1000軒を超えるまでに増えていきました。
 ビジネスの成長に伴い、高速のボトリングマシンの開発や輸送の効率化が進み、ボトラーはより多くの消費者に、より大量の製品を供給できるようになりました。
 コカ・コーラのボトリングシステムは現在、世界に最も広く普及した、世界最大規模の生産体制および流通網の一つとなっています。
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思わずうなる「コカ・コーラのトリビア20」

1900年代のボトリング工場



[トリビア8]
コカ・コーラの象徴「コンツァーボトル」は、模造品(偽物)対策として誕生した。
[解説]
1900年代初期、コカ・コーラのボトラーたちにとっての最も深刻な課題は、製品およびパッケージの模造を防ぐことでした。ブランドイメージを毀損する可能性のある模造品が出回ることは、ボトラー社にとって到底受け入れられるものではなかったからです。結果としてこのことが、“ボトルの進化”を後押しする原動力となります。ボトラーたちは1916年、インディアナ州テレホートに本拠を置くルートグラス社がデザインした独自のコンツァーボトルをコカ・コーラの公式ボトルとして採用することで同意し、この形状は、1977年に米国特許局によって商標登録を認められました。当時、パッケージの商標登録が認められるのは極めて稀なケースでした。
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思わずうなる「コカ・コーラのトリビア20」

コンツァーボトル第1



[トリビア9]
6本入りのダンボールケースの導入は、コカ・コーラ社がパイオニア。
[解説]
 コカ・コーラ社は1920年代初頭、消費者が家に持ち帰りやすい6本入りカートンをどの飲料メーカーよりも早く導入しました。「取っ手付きホームパッケージ」と称されたこのカートンは、その使いやすさで好評を博したのはもちろん、ロゴの入ったパッケージを消費者が持ち帰ってくれること自体が宣伝にもなり、業界最強の販促ツールになりました。
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思わずうなる「コカ・コーラのトリビア20」

6本入りカートンの宣伝ポスター



[トリビア10]
1928年まで、ソーダファウンテンの方がびん詰めコカ・コーラよりも売り上げが上だった。
[解説]
 1919年、アーネスト・ウッドラフおよびW・ C・ブラッドリー率いる投資家グループが、ザ コカ・コーラ カンパニーを買収しました。その4年後にはアーネスト・ウッドラフの息子で当時33歳だったロバート・ウィンシップ・ウッドラフが同社の社長に選出され、その後60年以上にわたり同社の陣頭指揮を執り続けました。
 ウッドラフは、ボトリングに大きな可能性を見出しており、びん入り製品の広告およびマーケティングに一層の力を注ぎました。その結果、1928年末にはびん入りのコカ・コーラの売り上げが、初めてファウンテンのそれを上回ったのです。
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思わずうなる「コカ・コーラのトリビア20」

ロバート・W・ウッドラフ