世界的な大型イベントに関わり、自分たちのビジョンや計画がゼロから形になっていく様子を目の当たりにしたことは、何事にも代えがたい経験となりました。当時、「まだ20歳そこそこの自分が、世界有数のブランドを代表して、オリンピックの感動体験を観客にもたらすための企画やマーケティングに携わるだけでなく、運営そのものにも携わっているんだ……」と思うと、胸に迫るものがありました(私たちは『コカ・コーラ オリンピックシティー』を訪れる有名人やメディア関係者、国家元首といったVIPのおもてなしに奔走しました)。

開会式の前日、数年間に及んだ取り組みの頂点とも呼べる出来事がありました。その日、私はオフィスにいました。そこへ上司がやってきて、「明日は何をする予定だい?」と尋ねるので、「もちろん、ここに来ますよ!」と私が答えると、上司は言ったのです。「その前に、ちょっと寄り道してもらう必要があるな。ラッキー・ストリートを下って本社に向かう道の半分を、お前に聖火を持って走ってもらうことになったから」。私の27年間のコカ・コーラ社におけるキャリアの中でも、いや、生まれてからこれまでの人生においても、あれは最高に幸せな瞬間でしたね。家族や友人、そして一緒にプロジェクトを進めてきた多くの同僚が、沿道で私に声援を送ってくれました。1988年に招致活動に関わり始め、長い期間をかけて準備に奔走し、「コカ・コーラ オリンピックシティー」のオープン後はVIP対応に全力を尽くして迎えようとしていたオリンピックの開幕。オリンピックの聖火ランナーとして走ったことは、自分の仕事のクライマックスにふさわしい、至福の経験でした。

 

■ピーター・フランクリン:超多忙なCM制作の日々

オリンピック期間中は、その日撮影した最新映像を採り入れた30秒のTVコマーシャルを制作し、次の日に放映するということを毎日繰り返していました。私の役割は、競技中の選手の動画や写真を使用するにあたっての契約条件や、現在の肖像権の管理状況についてエージェントに確認し、使用許諾を取り付けることでした。最新映像をTVコマーシャルで即時放映するという手法は、近年のリアルタイムマーケティングの先駆けだったとも言えますね。

大会期間中はとてもたくさんの業務をこなす必要があり、私の部署のスタッフはほとんどすべてのエネルギーをオリンピックに割いていました。私は観客の一人としてオリンピックを楽しみながらも、同じ場面をコカ・コーラ社社員の一人としても見ていました。「これを実現させるために、裏でどれだけの人が動いたのか、全部知ってるぞ」と思いながら、オリンピックを体験することは楽しく、大変なこともいろいろありましたが、仕事の充実感を感じることができました。

コカ・コーラ社はオリンピックのためにさまざまな活動を実施してきました。その中でも、コカ・コーラ社の最大の功績は、オリンピックの聖火リレーの新しい運営モデルを、1996年 アトランタ大会の組織委員会と連携してつくり上げたことではないでしょうか。「コカ・コーラ」ブランドを世界に発信する絶好の機会でもある聖火リレーは、世界中から大勢の人が参加するオリンピックに欠かせない一大イベントに育っていきました。現在聖火リレーは、競技そのものを別にすれば、オリンピックの最大の体験型イベントとなっています。

私はこれまで12回以上のオリンピックに関わってきましたが、どの大会が一番印象に残ったかと聞かれれば、必ず1996年 アトランタ大会と答えています。なにしろ私たちのホームタウンで開催された大会で、大会運営のための準備を最初から最後まで身をもって経験したわけですから。私が関わったプロジェクトの一つに、現在では「ペンバートン・プレイス」として知られている、アトランタ中心街の「コカ・コーラ オリンピックシティー」跡地の土地取得があります。アトランタ市がセンテニアル・オリンピック公園を整備するための資金と政治力を集めるのに苦労する中、コカ・コーラ社はさりげなく、相当な金額の資金提供を申し出ていたのです。

多くの人々の記憶に残っている1996年 アトランタ大会。その記憶のうちの大部分にコカ・コーラ社が携わっていることを、私は舞台裏から実感していたんです。

 

■ベン・ドイチェ:ロックなTシャツは思い出の宝物!

私は、「コカ・コーラ オリンピックシティー」で世界中のラジオ局の番組を放送する「コカ・コーラ ラジオ」というプログラムを担当していました。同時に、各国から訪れたメディア企業のコーディネーターも担っていて、インタビューの手配や撮影クルーの案内などを手伝いました。一番印象に残っているのは、バスケットボールのリトアニア代表チームが「コカ・コーラ オリンピックシティー」を訪れたときのことです。リトアニア代表は世界有数の強豪チームで、NBAのスター選手も数人抱えていましたが、面白いことに、ロックバンドのグレイトフル・デッドがスポンサーを務めていました。そのため、リトアニア代表のバスケットボール選手はどこへ行くにもバンドが提供したタイダイ柄のTシャツを着ていたんです。私も1枚手に入れて、今でも大切にしています(上の写真で広げているのがそれです)。長身の彼らがおそろいのグレイトフル・デッドのTシャツを着て、「コカ・コーラ オリンピックシティー」を歩き回る姿は、相当迫力がありました。

センテニアル・オリンピック公園が目と鼻の先にあったこともあり、あの年のコカ・コーラ社内には独特の高揚感が漂っていました。私はこんなに間近でオリンピックを体験できるということがまるで夢のように感じられ、「これはウソではないか」と自分の頬をつねったことを覚えています。それに、20年前のコカ・コーラ社にはかなり厳格な服装規定があり、スーツとネクタイの着用が義務付けられていましたから、短パンとゴルフシャツ姿で仕事することができた2週間は、まるでバケーションのような開放感がありましたね。

私たちは文字通り、アトランタの街を「コカ・コーラ」カラーの赤で染め上げました。どこへ行っても「コカ・コーラ」を想起せずにはいられなかったほどです。スポーツを活用したマーケティングがまだまだ進んでいなかったころですから、体験型のマーケティングを行っていた「コカ・コーラ オリンピックシティー」は時代を先取りしていたと言えますね。

コカ・コーラ社の一番の功績は、オリンピックの成功を支えたことだけにとどまらず、大会後には「コカ・コーラ オリンピックシティー」の跡地を購入して新しい施設に生まれ変わらせた点でしょう。現在ここは「ペンバートン・プレイス」と呼ばれ、ワールド・オブ・コカ・コーラ博物館、ジョージア水族館、公民権・人権センターというアトランタを代表する三つの観光スポットを含む複合施設となっています。その前は特に見どころのないエリアでしたから、現在の繁栄ぶりを見ると、本当に感慨深いですね。

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