写真協力:アトランタ歴史センター


コカ・コーラ」の生誕130周年を記念して、
アトランタ歴史センターCEOが綴ってくれた、
コカ・コーラ」とアトランタ市の絆にまつわる話をご紹介します。

文=シェフィールド・ヘイル アトランタ歴史センター プレジデント兼CEO


■1888年から結ばれていた「コカ・コーラ」とアトランタ市の絆

私は、アトランタ市を代表する博物館のアトランタ歴史センターCEOであり、故郷に誇りを持つ一市民でもあります。だからでしょうか、毎日毎日、アトランタ市の歴史上の出来事に思いを巡らせています。

2016年5月8日は、そんな私に限らず、すべてのアトランタ市民の心に刻まれたはずです。なぜなら2016年5月8日は、「コカ・コーラ」が初めて販売された日から130年目という記念すべき日だったからです。

1886年5月8日に、薬剤師のジョン・S・ペンバートン博士がジェイコブスファーマシーという薬局で「コカ・コーラ」を初めて販売しました。それ以来「コカ・コーラ」は、アトランタ市の成長と発展を、経済面からだけでなく、教育や福祉といったあらゆる側面から支えてきました。今のアトランタ市があるのは「コカ・コーラ」のおかげと言っても過言ではありません。

1888年にペンバートン博士から「コカ・コーラ」事業の権利を買い取ったエイサ・G・キャンドラーザ コカ・コーラ カンパニー<米国本社>の初代社長)は、地元で愛される素朴な味わいの炭酸飲料に過ぎなかった「コカ・コーラ」を、米国を代表する製品と言われるまでに育て上げました。製品が全国区になったことで、人口が集積している東海岸や西海岸に本社を移転させるという選択肢もあったことでしょうが、キャンドラーは「コカ・コーラ」の人気と影響力がどれほど大きくなろうとも、会社のルーツであるアトランタ市のことを忘れることはありませんでした。事実、キャンドラーは、ザ コカ・コーラ カンパニーの発展のみならず、アトランタの都市づくりにも精力的に取り組みました。

社長を退いてからは市内の不動産開発を手掛け、その後アトランタ市長に就任すると、財政面で困窮していた市の立て直しに尽力しました。現在アトランタ市の玄関口になっているハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港は、かつてキャンドラー家が所有していた土地に建設されています。そのため、キャンドラー・フィールドと呼ばれていたこともありました。


■2代目社長が決めた、キング牧師の葬儀への支援

2代目社長のロバート・W・ウッドラフは、1923年から亡くなる1985年までの間に、ザ コカ・コーラ カンパニーの社長と財務委員長を歴任しました。今でもアトランタ市内の建造物、公園、公共施設……いたるところに彼の市に対する多大なる支援の成果が残っています。ウッドラフは1937年にエモリー大学ウィンシップがん研究所の設立資金を提供したほか、1979年には弟のジョージ・W・ウッドラフとともに1億500万ドル相当のザ コカ・コーラ カンパニー株をエモリー大学に寄付しました。これは当時、大学に対する単一の寄付としての過去最高額で、エモリー大学が米国有数の名門大学に躍進するきっかけとなりました。

アトランタ市が世界に誇る芸術施設、ウッドラフ・アーツ・センターは、ウッドラフからの600万ドルの寄付金を元手に創設されました。アトランタ大学センターのロバート・W・ウッドラフ図書館も、彼の支援により設立されたもので、1946年に創設されたアメリカ疾病予防管理センターの本部がアトランタに置かれるように取り計らったのも、ウッドラフでした。

1968年、公民権運動の主導者マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されるという衝撃的ニュースが世界を駆け巡りました。ウッドラフはそのとき、キング牧師の葬儀の追加費用をザ コカ・コーラ カンパニーが負担することをアトランタ市長のイヴァン・アレン(当時)に約束しました。「費用を気にする必要はないので、きちんと葬儀を執り行うように」という言付けといっしょに。

そんなウッドラフの博愛精神は、現在も引き継がれています。ウッドラフ・ファウンデーションザ コカ・コーラ ファウンデーションという二つの財団が、さまざまな形でアトランタ市への貢献を続けているのです。


■市を代表する観光スポットも開発!

ロベルト・ゴイズエタは、1980年から1997年まで、ザ コカ・コーラ カンパニーの社長を務めた人物です。ゴイズエタ家もまた、財団ゴイズエタ・ファウンデーションを通じてアトランタ市への支援活動をしています。たとえばエモリー大学に設立されたゴイズエタ・ビジネススクールや、アトランタ歴史センターで整備が進んでいる約9ヘクタールの緑地、ゴイズエタ・ガーデンズは、ゴイズエタ家の支援によるものです。

ここまでご紹介してきたのは個人や財団単位の活動ですが、ザ コカ・コーラ カンパニー自体も、アトランタ市に多額の寄付や支援をしてきました。たとえば1932年にはアトランタ・クラッカーズというマイナーリーグの野球チームを買収しました。これは、世界恐慌のあおりを受けて経営不振に陥っていた球団を救うためでした。2000年代初頭にはアトランタ中心部の広大な土地を開発、センテニアル・オリンピック公園の周辺に複合施設を完成させました。現在この施設にはワールド・オブ・コカ・コーラ博物館、ジョージア水族館、公民権・人権センターというアトランタ市を代表する観光スポットが入っています。


■人種問題を解決に導いたザ コカ・コーラ カンパニーの勇気

アトランタ市におけるザ コカ・コーラ カンパニーの存在の大きさを如実に表した、こんなエピソードがあります。

マーチン・ルーサー・キング牧師は、1965年にノーベル平和賞を受賞しました。そして、賞の受賞後、キング牧師のために祝賀会を開催することになったわけですが、地元アトランタ市の白人実業家たちは、祝賀会のスポンサーに名乗りを上げようとはしませんでした。そのような状況を見て、すぐさま行動をおこしたのが、ロバート・W・ウッドラフと当時ザ コカ・コーラ カンパニー社長を務めていたJ.ポール・オースティンでした。

アトランタ市長アイヴァン・アレン・ジュニアの要請を受けた彼らは、実業家たちを会議に招集し、「ザ コカ・コーラ カンパニーは、同郷のノーベル賞受賞者への祝福を拒否するような都市に本拠を置くことを、恥ずかしく思います」と話し始めました。そして大胆にも、「ザ コカ・コーラ カンパニーのような世界的な企業はアトランタ市なしでもやっていける。もしもアトランタ市がザ コカ・コーラ カンパニーを必要とするのであれば、それなりの判断をしてもらいたい」と言い放ったのです。このスピーチを受けて、多くの実業家がザ コカ・コーラ カンパニーとともに祝賀会のスポンサーを務めることになり、アトランタ市は米国中で称賛の的となったのでした。

マーチン・ルーサー・キング牧師のノーベル賞受賞スピーチの手書き原稿は、現在アトランタ歴史センターの「アトランタゆかりの事物50選」という展示の中で見ることができます。1915年に意匠登録を受けた「コカ・コーラ」ボトルも展示されていることは、言うまでもありません。


■「コカ・コーラ」とアトランタ市に乾杯しよう!

ここでご紹介した出来事、人物、施設、財団は、ザ コカ・コーラ カンパニーがアトランタ市にもたらしてくれた“プレゼント”のほんの一部に過ぎません。同社の130年の歴史を通じて、無数の人々がさまざまな形でアトランタ市の発展に貢献しており、今後も、ザ コカ・コーラ カンパニーとアトランタ市の伝統は受け継がれていくことでしょう。

コカ・コーラ」の130周年を記念して、キンキンに冷えた「コカ・コーラ チェリー ゼロ」(これは私が個人的に一番気に入っている製品です)のグラスを掲げたいと思います。

長年にわたってアトランタ市に繁栄をもたらしてきた「コカ・コーラ」。町中どこへ行っても見かけるほどに、身近な存在である「コカ・コーラ」。「コカ・コーラ」なしのアトランタ市も、アトランタ市なしの「コカ・コーラ」も考えられませんね!

*本記事は、2016年5月13日『Atlanta Business Chronicle』に掲載された記事を翻訳したものです。