2017年に創立60周年を迎える日本コカ・コーラ株式会社
それを記念して、日本コカ・コーラ(株)の社史と
清涼飲料「コカ・コーラ」の日本市場における歴史を
ご紹介する連載企画の第4回目です。
今回は、「コカ・コーラ」事業の発展に大きく寄与した、
技術者と営業マンの奮闘ぶりを描きます。

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イラスト=宮内大樹

 

世界各国で展開されているコカ・コーラ社のビジネスは、現地で生産を行うこと=現地主義を採用しています。それはもちろん、日本でも同じこと。

 

たとえば、「コカ・コーラ」のボトル。

日本では、1949年(昭和24年)徳永硝子(*現存しない会社です)が初めて「コカ・コーラ」ボトルの製造を認可されています。その後、他のいくつかのガラス会社も同様の認可を受け、生産に乗り出しました。

 

しかし、ザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)が定めた厳しい規格は、当時の日本の製造技術の水準の遥か上をいくもの。規格どおりのボトルをつくり上げるため、各ガラス会社の技術者は、昼夜を問わず技術開発に勤しみました。

 

結果的にその努力が結実し、海外製品と比べても何の遜色もない高品質のボトルが製造できるまでになりました。

 

製品工場内でもっとも印象に残る機械といえば、ラインから流れてくるボトルに素早く「コカ・コーラ」を詰めていく「びん詰め機」。日本製のびん詰め機械第1号は、1961年(昭和36年)三菱重工が開発したものでした。この機械を開発するために、三菱重工は米国のトップメーカー・マイヤー社と提携してノウハウを習得しています。

 

それらの努力の末、「コカ・コーラ」は国内で生産できるようになりました。そうなると、次に必要になるのは、生産された製品をより多くの消費者に届けること。ということで、日本コカ・コーラは営業活動にも力を入れていくことになります。


 

今も昔も「コカ・コーラ」の営業活動には二つの大きな特徴があります。

一つは、ルートセールスと呼ばれる独自の販売方式。問屋に製品を卸すのではなく、販売店を独自に開拓していく直販方式です。この方式により、販売店を増やすのと同時に、販売店と密接な関係を築くことに成功しました。

 

もう一つは、営業マンの業務範囲の広さです。具体的な業務とは、(1)トラックの運転、(2)製品の売り込みと空きびんの回収、(3)得意先の新規開拓、(4)ポスター貼りなどのマーチャンダイジング活動、(5)集金、(6)精算事務、(7)翌朝配送分の荷積み……。何と営業マンは、一人で7役もこなしていたのです。一見、非効率な働き方にも思えますが、営業マン一人ひとりが仕事に対する責任感を持ちやすくなることと、仕事を任されることによって、モチベーションを向上させられるため、のちに多くの企業がこの方法を真似ています。

 

その後もたゆまぬ営業努力により、「コカ・コーラ」の販売数量は急増していきました。1960年(昭和35年)には56万ケースだった年間販売数量が、翌1961年には106万ケース、1962年には262万ケースと、1970年ごろまでほぼ倍増のペースで成長を続けます。

 

そして、1967年(昭和42年)には、日本の各家庭でもっとも多く飲まれる清涼飲料の座を獲得したのです。

 

このようにして、日本中の多くの人々に愛されるようになった「コカ・コーラ」。次回は、「コカ・コーラ」と1964年東京オリンピックの関係についてお伝えします。

(つづく)

*その他の記事は、こちらからご覧ください。
第1回 「コカ・コーラ」の日本上陸
第2回 日本の消費者と「コカ・コーラ」の出会い
第3回 「コカ・コーラ」事業自由化までの道のり
第5回 コカ・コーラ社と1964年東京オリンピック
第6回「コカ・コーラ」の広告ヒストリー
第7回 コカ・コーラ社製品の多様化 その1

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