文=コカ・コーラ ジャーニー編集部


■天性の営業マン、キャンドラー社長のみごとなPR戦略

ザ コカ・コーラ カンパニー初代社長のエイサ・G・キャンドラーは、「コカ・コーラ」の初期のビジネスモデルを確立させた人物です。

彼は「コカ・コーラ」のような斬新な清涼飲料の登場を心待ちにしている人々が世の中にはたくさんいるということを、見抜いていました。天性の営業マンであったキャンドラーは、「コカ・コーラ」という製品の認知とその味覚の認識を広げるために、「コカ・コーラ」を飲んだことのない人を対象に無料クーポンを配布したり、当時炭酸飲料の流通を担っていた薬局に製品ロゴ入りの時計、つぼ、カレンダー、はかりなどのグッズを配布したりと、画期的なPR方法を次々に考案していきました。そして積極的なPR戦略が功を奏し、人々はあらゆる場所で「コカ・コーラ」を目にするようになります。知名度の向上は生産規模の拡大につながり、1895年には、ザ コカ・コーラ カンパニーはシカゴ、ダラス、ロサンゼルスにシロップ工場を設立するまでに成長しました。

ザ コカ・コーラ カンパニーが快進撃を始めた当初、「コカ・コーラ」は主にソーダファウンテン(カウンター形式の喫茶店)で販売されているだけでしたが、人気が高まるにつれて、新しい楽しみ方を考案する人物が現れるようになりました。その人物とは、ミシシッピ州のビジネスマン、ジョセフ・A・ビーデンハーン。彼は1894年、初めて「コカ・コーラ」をボトルに詰めて、そのうち12本をキャンドラーに送ったのです。しかし、キャンドラーは、それにあまり関心を示しませんでした。革新的な発想を誇った優秀なビジネスマンの彼ですら、消費者がどこにでも製品を持ち運べるボトルという容器に「コカ・コーラ」の未来があることを見抜けていなかったようです。その5年後の1899年に、テネシー州チャタヌーガの二人の弁護士、ジョゼフ・ホワイトヘッドベンジャミン・トーマスキャンドラーから「コカ・コーラ」のボトリング(瓶詰め販売)の権利を獲得しましたが、販売権を得るための対価はわずか1ドルでした。

次回は、ボトル詰め販売でさらなる成長を遂げる「コカ・コーラ」が直面した、ある試練に焦点を当てます。

前回(第1回:1886年~1892年)の記事はこちらからご覧ください。
http://www.cocacola.co.jp/stories/1886-1892