キング牧師のノーベル賞受賞祝賀会への招待状
(写真クレジット:アトランタ・ヒストリー・センター

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(以下、キング牧師)は、米国における人種差別の撤廃を目指す公民権運動(*1)を主導した人物で、1964年にはその功績が認められてノーベル平和賞を受賞しています。

キング牧師「コカ・コーラ」と同じジョージア州アトランタの出身で、今ではアトランタを代表する偉人として真っ先に名前が挙がるほどの存在。一方、彼が活躍した1950~60年代の米国南部では、人種差別的な制度や意識がまだ根強く残っていました。世界がキング牧師の功績を称えているにもかかわらず、白人中心のアトランタの実業家たちの中には、彼を快く思わない人もたくさんいたのです。そんな現実に向き合い、分断されていた人種間の橋渡し役を務めたのは、地元の大企業ザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)でした。今回は、アトランタの歴史を語るうえで欠かせない、キング牧師ザ コカ・コーラ カンパニーを巡る「ある夜」の出来事をご紹介しましょう。

文=ジェイ・モイエ

 

■ “時代遅れ”なアトランタの危機

1964年にキング牧師がノーベル平和賞を受賞したことは、地元アトランタの黒人コミュニティーでは最高の栄誉として熱狂的に受け入れられました。しかし、アトランタに住む多くの白人の反応は、それとは異なるものでした。そのころ、米国南部では白人を優位に扱い、人種間の交流を妨げる法制度が半世紀以上にわたって維持されており、多くの白人たちは、キング牧師の主導する公民権運動によって既得権益が奪われることへの不満を抱いていたのです。

その一方で、進歩的なアトランタ市民は、人種に関係なくキング牧師の活動を応援していました。ノルウェーのオスロでキング牧師がノーベル賞を受賞した後、そのような市民の一部が集まり、アトランタ市内のディンクラー・プラザ・ホテルでの祝賀会を企画しました。異なる人種や宗派の人々を幅広く招待して、共にキング牧師の偉業を称える場にしようとしたのです。

当時アトランタ市長を務めていたアイヴァン・アレン・ジュニアは、この祝賀会の趣旨に賛同し、地元の実業家たちに参加を呼び掛けると約束しました。しかし、招待状は白人のビジネスリーダーのほとんどに無視されてしまいます。ある銀行家は、祝賀会の成功を阻止すべく、招待されても参加しないよう、ほうぼうに電話をかけたとすら言われています。

このような態度が、人種差別撤廃が進んでいた南部以外の地域の人々には、時代遅れで偏狭な反応に見えたのも当然のことでした。ニューヨーク・タイムズ紙には「キング牧師を称えるべきかを巡りアトランタで論争」という見出しでアトランタを非難する記事が掲載され、祝賀会開催が危ぶまれているというニュースが全国に広まってしまいました。

その少し前に、アトランタ市は「憎しみ合うには忙し過ぎる街」というキャッチコピーのもと、人種差別撤廃への取り組みをアピールする大々的な広報キャンペーンを打ち出したばかりでした。アレン市長にとって、キング牧師を称える祝賀会への関心の低さは、市の恥以外の何物でもなかったのです。

窮地に立たされたアレン市長は、ある人物に助けを求めることにしました。その相手とは、かつてザ コカ・コーラ カンパニーの社長を務めていたロバート・ウッドラフです。アトランタの財界に対するウッドラフの影響力をよく知っていた市長は、ジョージア州南西部のイチャウェイ・プランテーションに彼を訪ねました。

ウッドラフは落馬事故を起こして療養中でしたが、アレン市長に会い、その考え方に共鳴。そして、当時ザ コカ・コーラ カンパニー社長を務めていたポール・オースティンに、アトランタ中のエリートビジネスマンを集めて非公式の会合を開くよう指示したのです。

 

コカ・コーラ社が提示した切り札とは?

ジョージア州ラグランジ出身のオースティンは、南アフリカ共和国で14年間働いた経験があり、そこでアパルトヘイト(*2)と人種差別主義によって経済の発展がいかに阻害されているかを目にしていました。アトランタで同様のことが起きることをなんとしても阻止したいと考えた彼は、アトランタの財界人に対して「財界がこの問題に対する姿勢を変えない限り、ザ コカ・コーラ カンパニーは本社を他の都市に移す」という意思を表明。

オースティンは、会合で次のように発言しています。「ザ コカ・コーラ カンパニーは、同郷のノーベル賞受賞者への祝福を拒否するような都市に本拠を置くことを、恥ずかしく思います。ザ コカ・コーラ カンパニーのような世界的な企業は、アトランタ市なしでもやっていける。もしもアトランタ市がザ コカ・コーラ カンパニーを必要とするのであれば、それなりの判断をしてもらいたい」。

このスピーチを受けて、数日後には祝賀会は満席となりました。それだけでなく、多くの実業家がザ コカ・コーラ カンパニーとともに祝賀会のスポンサーを務めることになり、アトランタ市は一転、人種間の融和の象徴として米国中で称賛の的となったのでした。

人種間の垣根がなくなった“奇跡の一夜”。 キング牧師を支えたコカ・コーラ社の英断

祝賀会プログラム(アトランタ・ヒストリー・センター所蔵

1965年1月27日、1,500人を超えるゲストがアトランタのディンクラー・プラザ・ホテルに集まる中、キング牧師は熱のこもったスピーチをしました。参加者の中には、そのときまで一度も違う人種の人と食事をしたことのない人も多くいましたが、困難を乗り越えてともに前進することを誓う歌「We Shall Overcome」(邦題:『勝利を我等に』)を即興で合唱するほど、力強い団結が生まれたのです。

 

キング牧師からの感謝の言葉

1965年2月3日、アレン市長ウッドラフに手紙を送りました。そこには祝賀会について、「良い判断であり、アトランタ市にふさわしい行事だった」と好意的に書かれた新聞記事の切り抜きが同封されていました。「この記事は、私たちが求めていた意見を述べてくれています。そして、米国の多くの地域での、私たちの考えに対する反応を反映しているものだと思います」と手紙には綴られていました。

キング牧師の思いも同じだったようです。ザ コカ・コーラ カンパニーにあてた1965年3月15日付の手紙で、彼は次のように書いています。

「先日の祝賀会は、私のこれまでの活動は間違っていなかったのだと確信させてくれる貴重な機会となりました。皆が私のために集まってくれただけでなく、アトランタ市、米国南部、そして米国という国家が、前の世代が経験してきた対立構造を乗り越えていく力を持っていることを証明したのです。あの場では、あらゆる違いを受け入れることができる素晴らしいコミュニティが生まれ、あらゆる心が民主主義とユダヤ教・キリスト教の教えの下で一つになったのです」

 

*1 公民権運動:米国において、有色人種に白人と平等な諸権利を要求する運動。1950~60年代の米国南部の黒人を中心に差別撤廃に向けた活動が高まり、キング牧師マルコムXローザ・パークスらが主導的な役割を務めた。
*2 アパルトヘイト:南アフリカ共和国において、白人と非白人を隔離するために適用された諸政策。1948年に法制化されてから1994年まで存続した。