全国高等学校野球選手権大会、通称“夏の甲子園”は、今年が記念すべき第100回。幾世代にもわたって愛され続けてきた、野球というスポーツの根強い人気を感じさせる数字ですね。

ところで、ザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)がかつてプロ野球チームを所有していたということをご存知の方は、野球ファンでもそう多くないのではないでしょうか。実は、同社は1932年から1949年にかけて、地元アトランタのチーム「アトランタ・クラッカーズ」のオーナーを務めていたのです。今回は、ザ コカ・コーラ カンパニーのサポートを受けた野球チームが経営難を克服し、さらには人種間に存在する大きな壁を乗り越えるための大きな第一歩を踏み出すまでの物語を、ご紹介いたします。

文=テッド・ライアン

 

■その日、アトランタで初めて「白人と黒人の試合」が行われた

1949年4月8日、ジョージア州アトランタの野球史に残る試合が開催されました。ブルックリン・ドジャース(*1)対アトランタ・クラッカーズの公開試合で、黒人選手のジャッキー・ロビンソンと白人選手のロイ・キャンパネラが対決。人種差別的な制度や思想が支配的だったアトランタにおいて、史上初めて人種の壁を越えた対戦が実現したのです。

ジョージア州出身のロビンソン選手は、当時は肌の色によってリーグすらも分かれていたアメリカ野球界の壁を突破し、ブルックリン・ドジャースで初の黒人選手として活躍していました。メジャーデビューから遅れること2年、黒人・白人合わせて1万8,000人を超えるアトランタの観衆の大歓声を受けた彼は、「世界中の誰とも、この立場を替わりたくない」と感慨を口にしました。

この試合の実現に尽力したのが、アトランタ・クラッカーズのプレジデント兼ゼネラルマネジャー(GM)だったアール・マンと、ブルックリン・ドジャースGMのブランチ・リッキーでした。二人は試合の妨害を目論むクー・クラックス・クラン(KKK)(*2)の脅迫にも屈せず、断固として試合開催の姿勢を貫いたのです。そんな二人を支えていたのが、当時のアトランタ・クラッカーズのオーナー、ロバート・ウッドラフ社長率いるザ コカ・コーラ カンパニーでした。

ところで、アトランタ・クラッカーズとは一体どんなチームで、どのような経緯でザ コカ・コーラ カンパニーが保有することになったのでしょうか?

 

■ジリ貧の「地元チーム」の救済に乗り出す

経営難と人種差別に立ち向かった、ある球団の物語。 コカ・コーラ社が保有していた「プロ野球チーム」とは?

アトランタ・クラッカーズアトランタ・ベースボール・コーポレーションのロゴ

アトランタ・クラッカーズは、米国南部の8チームから構成されるAAマイナーリーグ(*3)「サザン・アソシエーション」の所属チームでした。サザン・アソシエーションは1901年から1961年まで60年間存続し、アトランタ・クラッカーズは8チーム中最も多くのペナントを勝ち取ったことから、メジャーリーグの強豪にあやかって「南部のヤンキース」の異名を取っていました。

しかし1929年、世界大恐慌が米国全土を襲うと、野球界も大きなダメージを受けます。大幅な減収を余儀なくされたアトランタ・クラッカーズの負債は積み上がり、経営の不手際がそれに追い打ちをかけました。1929年のシーズン末には、チームはザ コカ・コーラ カンパニーとアトランタのボトラー社を含む複数の現地企業に切り売りされるという事態に陥ります。そして状況がさらに悪化した1932年。ザ コカ・コーラ カンパニーロバート・ウッドラフ社長は、地元アトランタのチームを存亡の危機から救うため、クラッカーズの完全買収に踏み切ったのです。

経営難と人種差別に立ち向かった、ある球団の物語。 コカ・コーラ社が保有していた「プロ野球チーム」とは?

アトランタ・クラッカーズのプレジデント兼GM アール・マン
(写真提供:アトランタ・ヒストリー・センター内 ケナン・リサーチ・センター)

まずザ コカ・コーラ カンパニーは、アトランタ・クラッカーズの所有会社として、アトランタ・ベースボール・コーポレーションを設立しました。しかし、それだけで経営がすぐに上向くわけはありません。ザ コカ・コーラ カンパニーの記録によると、チームの赤字経営はその後も数年間続き、ようやく収支が合うようになったのは、3年後の1935年になってからのことでした。このとき、チームの立て直しを主導したのが、1934年にプレジデント兼GMに起用されたアール・マンです。

アトランタ育ちのマンはその時29歳。当時のマイナーリーグのチームは大半が独立採算制で、優秀な選手を発掘・育成してメジャーリーグのチームに移籍させ、高額の契約金を得ることで収益を得ていました。マンは優れた選手の目利きであると同時に抜群の営業センスを持っており、彼の手腕とザ コカ・コーラ カンパニーの資金力が組み合わさったことで、クラッカーズの経営は飛躍的に改善していったのです。

 

■人種差別主義者に打ち勝った歴史的な試合

経営難と人種差別に立ち向かった、ある球団の物語。 コカ・コーラ社が保有していた「プロ野球チーム」とは?

観客向けに販売されたアトランタ・クラッカーズのスコアブック

さて、再び1949年の春に戻りましょう。ブルックリン・ドジャースアトランタ・クラッカーズが、3回の公開試合を行うことになりました。しかし、ここで差別の壁が立ちはだかります。春のトレーニングを終えたドジャースが北部からアトランタに移動し、試合日程が近づいてくると、KKKが試合のボイコットを呼びかけ、「クラッカーズの試合を観戦拒否する人の署名を1万人分集める」と関係者を脅してきたのです。

しかし、ザ コカ・コーラ カンパニーは、何があっても試合開催を支持する姿勢を示しました。マンリッキーも強い指導力を発揮したおかげで試合は滞りなく開催され、ボイコットどころか記録的な数の観客を呼び込むことに成功したのです。地元アトランタの誇りをかけて、経営の立て直しを進めてきたアトランタ・クラッカーズ。人種の違いを超えて、選手もファンも一体となって試合に臨むのだという意志を示したことで、チームは真の意味でアトランタの誇りになったといえるでしょう。

1949年のシリーズが終わると、マンザ コカ・コーラ カンパニーに対して、チームと球場を買収したいという意向を示しました。それ以前からチームの売却を検討していたザ コカ・コーラ カンパニーはこの提案を受け入れ、野球チームのオーナー業からは完全に手を引くこととなります。

ザ コカ・コーラ カンパニーは、今はもう野球チームを持っていませんが、コカ・コーラ社製品が世界中の球場で選手やファンののどをうるおし続けているのはご存じのとおりです。炎天下の応援では、十分な水分補給をお忘れなく!

 

*1 ブルックリン・ドジャース:19世紀のチーム創立から1957年まで、ニューヨークのブルックリン地区を本拠地としたメジャーリーグベースボール(MLB)のチーム。1958年に西海岸に移転し、ロサンゼルス・ドジャースに改名した。
*2 クー・クラックス・クラン(KKK):白人至上主義を謳う非合法の秘密結社。米国南部を中心に、非白人に対し暴力的な排斥運動を行うことで知られている。
*3 マイナーリーグ:MLBとは独立して運営されている北米のプロ野球リーグのうち、MLBの傘下に入る協定をしているもの。AAA(トリプルA、3A)を筆頭に、AA(ダブルA、2A)、アドバンスドA、クラスA、ショートシーズンA、ルーキー・アドバンスド、最下位組織・ルーキーリーグの7段階にクラス分けされる。現在はMLB所属チームと選手育成契約を結び、その下部組織となっている。