2017年に創立60周年を迎える日本コカ・コーラ株式会社。
その60周年を記念して、日本コカ・コーラの社史と
清涼飲料のトップブランド「コカ・コーラ」の日本市場における歴史を
ご紹介する連載企画の第2回目です。
今回は、「コカ・コーラ」が日本の一般消費者向けに販売されるようになるまでの、
一人の男性の奮闘記を描きます。
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イラスト=宮内大樹
総合食品卸問屋の小網商店代表・髙梨仁三郎は、ある日、知人宅で開かれていたパーティーで、彼の人生を大きく変える清涼飲料と出会います。
「コカ・コーラ」です。
一口目はその独特な味わいに違和感を覚えたものの、二口目からはこれまで味わったことのない未知のおいしさにどんどん惹かれていきました。
しかし、その出会いの後は「コカ・コーラ」を飲む機会はなく、髙梨はその存在を忘れかけていました。そんな1947年(昭和22年)の暮れ、ひょんなことから髙梨は「コカ・コーラ」の国内清涼飲料市場での有望性を耳にします。その瞬間、あの衝撃的な味の記憶がいっきに蘇ったのです。
「『コカ・コーラ』は近い将来、必ずや国内の清涼飲料市場を席捲するにちがいない!」と髙梨は考えました。ここから、彼の長い闘いが始まります……。
日本国内で「コカ・コーラ」事業を始めるためには、二つの大きな関門がありました。一つは、ザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーション(*1)から、ボトリング会社(*2)としての承認を得ること。もう一つは、生産に必要な原液を輸入するための外貨の使用を政府に認めてもらうことでした(*3)。
*1 ザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)の100%子会社として1930年に発足した、コカ・コーラ社の海外部門。
*2 製品の製造、販売などを担う会社。
*3 戦後当時の日本経済は低迷していたので、輸出ドライブ策に注力することが求められました。そのため、貴重な外貨を消費することになる「コカ・コーラ」の原液の輸入は、そう簡単に認められるようなことではありませんでした。
まず、髙梨は芝浦にあった「コカ・コーラ」の製造工場の所有権を手に入れ、その上で、1952年(昭和27年)10月末に渡米します。そして、ザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーションの担当者の紹介によりザ コカ・コーラ カンパニーの社長、副社長と直々に会談し、ついには東京での「コカ・コーラ」の販売権を手に入れました。
勢いに乗った髙梨は、1953年(昭和28年)6月、通産省(現:経済産業省)に対して「コカ・コーラ」の原液を輸入したいとの許可申請を提出します。当初は国会でも反対する意見が相次ぎますが、髙梨の情熱が通じ、1956年(昭和31年)11月にはついに念願の認可が下りたのです。
1956年11月10日、小網商店は東京飲料株式会社(現:コカ・コーライーストジャパン株式会社)を設立。翌年3月にはザ コカ・コーラ カンパニーおよびザ コカ・コーラ エクスポート コーポレーションと正式に契約を締結しました。これにより、日本におけるボトリング会社第1号が誕生、6月には、現在の日本コカ・コーラ株式会社の母体となる日本飲料工業株式会社(*4)も設立されました。こうして、現在の日本のコカ・コーラシステム(*5)の原型となる体制ができあがったのです。
*4 ザ コカ・コーラ カンパニーの現地法人(100%子会社)として、原液の供給と、製品の企画開発やマーケティングを担う会社。
*5 日本コカ・コーラと、全国のボトリング会社および関連会社で構成されるシステムのこと。
東京飲料のカスタマー第1号は、東京アメリカンクラブ(*6)でした。1957年(昭和32年)5月8日に、20ケースの「コカ・コーラ」を納品しました。この日は、日本の「コカ・コーラ」事業にとって記念すべき1日となりました。
*6 1928年に設立された会員制の社交クラブ。
当初、日本政府が東京飲料に許可を出した「コカ・コーラ」の販売箇所は96ヵ所に限定されていました。しかし、これは徐々に拡大され、1958年(昭和33年)末には1,000ヵ所を超えるほどとなったのです。
ようやく一般消費者の元へ届けられるようになった「コカ・コーラ」。次回は、国内の「コカ・コーラ」事業が自由化される過程について、お話しします。
(つづく)
*その他の記事は、こちらからご覧ください。
第1回 「コカ・コーラ」の日本上陸
第3回 「コカ・コーラ」事業自由化までの道のり
第4回 事業を発展させた技術革新と営業活動
第5回 コカ・コーラ社と1964年東京オリンピック
第6回「コカ・コーラ」の広告ヒストリー
第7回 コカ・コーラ社製品の多様化 その1
第8回 コカ・コーラ社製品の多様化 その2
第9回 自動販売機の進化史
第10回 コカ・コーラ社の地域貢献活動
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