アトランタ中心街の交差点にあったジェイコブスファーマシー
(1920年頃)
文=テッド・ライアン


■「コカ・コーラ」販売の立役者 ジェイコブス博士の横顔

「1886年5月8日、アトランタの薬局ジェイコブスファーマシーで『コカ・コーラ』が初めて販売されました」。歴代の「コカ・コーラ」関連グッズを保管しているザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)のアーカイブ庫の担当として、私は、これまでに数えきれないくらいこのフレーズを使ってきました。でも、「コカ・コーラ」が初めて販売されたのが実際にどのような場所だったのか、そして発売にいたるまでにどのような人物が関わっていたのか、詳しく説明する機会はなかなかありませんでした。せっかくですから、今回は、ジェイコブスファーマシーとその創業者であるジョゼフ・ジェイコブス博士について、少し踏み込んでご紹介したいと思います。

まずはジョゼフ・ジェイコブス博士の経歴を紹介しましょう。ジョゼフ・ジェイコブス博士は、ジョージア州ジェファーソンの出身で、クロウフォード・W・ロング博士(エーテルを麻酔剤として用いる方法を発見した人物です)の下で薬学を学ぶと、ロング博士のはからいでジョージア大学に進学します。大学を卒業するとフィラデルフィアに移ってしばらく研究を続け、その後、ジョージア州アセンズに製薬会社を設立しました。さらに、当時目覚ましい発展を遂げていたアトランタに目をつけたジェイコブス博士は、1884年1月にその中心街にあったテイラー・ファーマシーを買収すると、そこに会社を移転させ、ビジネスの拠点としました。
「コカ・コーラ」が初めて販売された
ジェイコブスファーマシーってどんなところ?

ジョゼフ・ジェイコブス博士
(提供:アトランタ・ヒストリー・センター

■薬局を繁盛させた奇手奇策の中身

1929年、ジェイコブス博士は製薬業界の専門誌『ドラッグ・トピックス』に「私が『コカ・コーラ』事業の権利を手に入れ、そして失うまで」という記事を寄稿しました。その中で彼は、自分の薬局の一角にあったソーダファウンテン(カウンター形式の喫茶店)について、次のように説明しています。

「ソーダファウンテンは、薬局に入ってすぐ右側にあった。運営の責任者はウィリス・ベナブルという人物で、彼の弟のジョン・ベナブルと息子のエドワード・ベナブル(今ではアトランタ有数のレストランの経営者となっている)がサポートする体制だった。ソーダファウンテンの評判は上々で、大きな収益を上げていたよ。各種飲料を合わせた売り上げは、1日平均150ドルもあったからね」

ソーダファウンテンは、薬局のオーナーが貸し出した薬局内の一角に設置されることが一般的でした。ベナブルジェイコブス博士も例に漏れず、そうした場所貸しの取り決めをしていたのです。

1886年当時の米国の薬局は、薬も販売する雑貨屋兼カフェのような存在でした。日用品を買うついでにソーダファウンテンで一息つく人もいれば、情報交換を目的として足を運ぶ人もいました。ちょっとした社交場的役割も担っていたのです。

そのような中でも、ジェイコブスファーマシーは特に繁盛していました。人気の秘密は、ジェイコブス博士の独創的なアイディアによるものだったと言えるでしょう。

たとえばジェイコブス博士は、アトランタで初めて商品の値引き販売を始めた人物の一人と言われており、面白い話も残っています。南北戦争(1861~65年)の後、アトランタで流通していた最も少額の貨幣は5セント硬貨でした。ここに商機を見出したジェイコブス博士は、首都ワシントンから1セント硬貨を3万枚、つまり300ドル分取り寄せたのです。そして、通常1ドルの商品を98セント(0.98ドル)に値引きして販売し、おつりを1セント硬貨で支払いました。他社よりわずかに安い価格設定と、物珍しい1セント硬貨でおつりを支払うというアイディアは消費者には大受けでしたが、競合他社を怒らせ、脅迫や訴訟まで起こる騒ぎとなってしまいます。しかしジェイコブス博士は引き下がりませんでした。そのうち競合他社の怒りは収まり、騒動の沈静化とともにアトランタには1セント硬貨が定着していったということです。


■「コカ・コーラ」事業の権利よ、さようなら

ジェイコブス博士は一時期、「コカ・コーラ」の発明者であるジョン・S・ペンバートン博士とともに、「コカ・コーラ」事業の共同オーナーとしての権利を持っていました(これは、1929年の記事にも書かれていることです)。これは元々、ウィリス・ベナブルペンバートン博士から手に入れていたものでしたが(ベナブルは『コカ・コーラ』を販売するためにペンバートン博士にロイヤルティを支払い、共同オーナーとして権利の持分に応じた利益を受け取っていました)、ベナブルはアトランタ市内に家を建てる資金が必要となったため、この権利をジェイコブスに売却していたのです。

ここで登場するのが、後にザ コカ・コーラ カンパニー(米国本社)の社長となるエイサ・G・キャンドラーです。ジェイコブス博士とキャンドラーは共にアトランタを代表する薬剤師であり、お互いのことをよく知っていました(キャンドラージェイコブスファーマシーに自分の息子を丁稚奉公に出したこともあります)。あるとき、キャンドラーは「薬局ビジネスから手を引こうと考えている」とジェイコブス博士に話しました。すると、今度はジェイコブス博士が「『コカ・コーラ』のことをよく知らないので、共同オーナーとしての権利を譲渡したいと思っている」と伝えました。そこで二人は、キャンドラーの保有していたガラス工場の所有権と、ジェイコブス博士の保有していた「コカ・コーラ」事業の権利を交換する取引をします。そしてキャンドラーは、ペンバートン博士が持っていた残りの権利も買い取り、「コカ・コーラ」ビジネスの単独オーナーになりました。
「コカ・コーラ」が初めて販売された
ジェイコブスファーマシーってどんなところ?

アトランタ市バックヘッドの交差点にあったジェイコブス・ドラッグストア
(1944年頃)

キャンドラー氏に『コカ・コーラ』事業の権利を譲った後、私が再びそれを手にすることはなかった。このことは、私にビジネスセンスが欠けていたことを物語っている」と、ジェイコブス博士は綴っています。ただし、このエピソードだけで、彼のビジネスマンとしての評価を決定することはできません。その後ジェイコブスファーマシーはアトランタ有数のドラッグストアチェーンに成長し、1929年9月にジェイコブス博士が亡くなったときには、その店舗数は8つを数えるまでに拡大していました。父の跡を継いで薬剤師となった息子のシンクレア・ジェイコブスは、米国南部全域にビジネスを拡大させ、21店舗もの巨大チェーンに育て上げました(第二次世界大戦後、シンクレアはドラッグストア事業をレブコ・ドラッグズという会社に売却しています)。

「1886年5月8日、アトランタの薬局ジェイコブスファーマシーで『コカ・コーラ』が初めて販売されました」。再びこのフレーズを耳にする機会があったなら、薬局を創業したジョゼフ・ジェイコブス博士と、彼にまつわる物語をぜひ思い出してみてください。