1964年の東京オリンピックに関わった方々への取材をもとに 当時の記憶をたどり、
2020年大会へと繋がる“何か”を探していく連載
「東京オリンピックと『
第2回は、
前篇は、日本
(連載第1回はこちら)
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■国民一丸となって進めた一大事業
前回の東京オリンピックが開かれた1964年は、どういう年だったのだろう。
4月、日本は
東京ー大阪間を4時間で駆け抜けた(写真提供=
その頃の庶民の生活は、テレビアニメの「
1957年に発売された「
東京オリンピックの前年、63年に
「とにかく忙しかった。そのうえ、オリンピック会場でも『
■段ボールに手書きで「ナピトク Coca-Cola 」
その頃、「
「だが、売価が違った。サイダーは1本20~25円、ラムネやジュースは1本10円。対して『
急上昇には理由がある。酒販店など従来型の小売店の他に、チャンスの見込まれるあらゆる場所で販売したのである。夏の海水浴場、山のキャンプ場、野球場などのスポーツイベントはもちろんのこと、いろいろなお祭りやコンクール、運動会など……。なかでもオリンピックはひときわ大きなイベントだった。
「会社から言われていたのは『人が集まる場所で売れ』。販売数量もさることながら、人目に付く宣伝効果が大きかった」
亀倉雄策が手がけたエンブレムと「コカ・コーラ」の赤いディスクロゴが
美しい対になったデザイン
「『コカ・コーラ』は1928年のアムステルダム大会からオリンピックをサポートしていました。選手村内では選手はフリードリンクでしたけれど、各競技場内の飲料は『コカ・コーラ』と『ファンタ』しかないのです。それで、私は当時、三国コカ・コーラボトリング(*2)が管轄していた戸田(埼玉県)のボート場に出張販売のアシスタントとして出かけていきました。『どぶ漬け』(水の中に砕いた氷を入れたもの)で冷やした瓶の『コカ・コーラ』を売っていたのですが、ボート競技って、それほど人気はないんですよ。だから、観客は多くはなかった。それでも、こっちは売らなきゃならない。ソ連の選手が大勢いたから、段ボールに手書きで『Напиток(ナピトク/飲料)
水野はボート会場、射撃会場だけでは面白くなかったので、ある休日、東京コカ・コーラの代々木営業所に遊びに行った。選手村担当者に頼んで、代々木の選手村に出かけていったのである。
「選手村ではみんなが『コカ・コーラ』をがぶ飲みしてましたね。そりゃ、タダでしたから。アメリカ人はもちろん、日本人選手も飲んでいた。僕は本当はフランスの水泳選手、クリスティーヌ・キャロン(100メートル背泳)を見に行ったんだ。可愛くて当時、大人気。銀メダルを取ったし……。でも、一生懸命探したけれど、見つからなかった。男子選手ばかりが歩いていた。まあ、がっかりだったけれど、選手村に入ることができて、それはよかった。オリンピックが終わってからはさっきも言ったように忙しくなって……。特に、ボトラー社の所長やマネジャーの中には何ヵ月も休みを取っていないという人もいた」
日本で週休2日制が始まるのは東京オリンピックの翌年だ。
(後篇へつづく)
*1
*2 三国
<著者プロフィール>
*連載「東京オリンピックと『
第1回 映画『東京オリンピック』が写したものと映したもの
第2回
第3回 選手たちの“食”を支えた学生アルバイト
第4回 あの「傑作ポスター」はいかにして生まれたか
コカ・コーラ 公式アカウント